3月29日 午前中 ナーノーイ小学校
車が山道を走ること延々。
くねくねの舗装道路から、砂埃を舞い上げる山道に入る。こんな奥に人が住んでいるんだろうか? と思うところに村が点々と現れる。それにしても、こんな道を、車に揺られ、SVAの現地のスタッフは、毎日、本箱を抱えて、子どもたちのところを周っているのだ。
「これは、並大抵のことじゃない」
と思う。ある意味で、命を危険にさらしつつ、巡回図書館をやっている・・・と言ってもあまり大げさじゃない道だ。雨季にはとても走れないだろう。そんなことを思いつつ、揺られ揺られ、1時間半以上も走った挙句に、まだ作業のはじまらない水田が見え、村についた。
着いてみると、そこはなんともホッとする村の光景で・・・えっ?こんな山奥に、こんな和やかな村があるの? と不思議な感覚に陥った。
このヴィエンカム郡は、本当にほとんどが山がちで、水田を見ることはほとんどないが、このナーノーイ村は、こんなに中心地から離れているのに、村に十分な水田があり、川にいけば魚があまるほど採れ、日々の暮らしには不自由ないという・・・そんな村なのだ。
だが、2012年までは、村に至る車道はなく、10数キロの道を歩いて車道まで出たそうだ。ヴィエンカム郡の中心地まで、歩いて5時間くらいかな?と小学校の校長先生が言うが、いや・・・私の足だったら、一日歩いて着くかわからない、という距離である。
山を切りひらいた車道は、村の人々が一家族、3万円弱にあたるお金を出し合って、自らが2012年に開いたのだという。小学校は元々はもっと小さな木造の校舎だったが、車道が通る前の2008年に、村人が協力して資材を全部担いで歩いて運び、建てたものだという。そう語ってくれた校長先生は、ここで生まれ育ち、そして、先生になって、29年間教鞭をとっているそうだ。
ゴザを運び、本を運ぶと、子どもたちはさっそく手にとって本を読みだした。
「ここの子どもたちは、よく本が読めるよ」
と、SVAスタッフが言ったが、確かにそうだ。後で聞いてみると、子どもたちの大半は、タイデーン(赤タイ)族で、カム族が少しいるそうだ。元々使う言葉がラオ語に近いためか、やはりラオ語を読むことが早いのだろうか?
でも、それ以上に、学校の教室を見ると、先生の熱心さが伝わってきた。おそらく、どこかの支援団体の協力があったものだとは思われるが、さまざまな教材、そして、生徒の手作りの作品などが、教室の至るところに飾られている。子どもたちを育てようという気持ちの表れた小学校だった。
校長先生のお宅で、お昼をご馳走になる。川で採れたばかりだという魚で、SVAの男性スタッフたちがラープを作る。こういう時の、ラオスの男性たちの働きっぷりは頼もしい。仕事の時とはまた違うあつい熱意?を持って、真剣に料理に取り組むのだ。こんな時は、日本人の女などの出る幕はないわけだ。ぶらぶらと村を歩き回ると、高床式の家の下では、学校から帰ってきたばかりの少女が機を織り、ブタがちょこちょこと歩き回り、水牛がのんびりと水浴びをしている。
校長先生に、
「ここは、ウドムソンブン(とても豊か)ですね」
と言うと、先生はなんのためらいもなくうなづき、「そう。ここで暮らしていけるからね。何にも買わなくてもいいからね」
と言った。確かに、町からこんなに離れていたら、いちいち何かを買いに行くということもないのだろう。都会から来た私には、ついつい、こんな僻地で・・・と思ってしまうけれど、ここには平らな土地があり、水があるから、水田で米を作り、野菜を作り、魚を採り、牛やブタや鶏を育て・・・暮らしてくることができ、人々が何世代にも渡って生活を築いてきた。彼らにとって、ここは中心地なのだ。
少し前まで、ラオスのこんな良さを、いろいろなところで感じることができた。
「自分たちは金はないよ。でも、金なんかなくても自分たちは生きていけるよ」と人々は言っていたものだ。でも今は、どこへ行っても、「金がない」という話になる。ここでは、その豊かさが残っている。
数年前に車道が通り、そして、もうすぐここにも電気が通じる。そして、子どもたちは中学になれば、みな町の中心地へと出て行く。少しずつここも変わっていくだろう・・・でも、いつまでも「これは豊かな暮らしだよ」と思っていてほしい・・・と願う。
(これは私が見る限りにおいて、このヴィエンカム郡で、とても少ないケースの村です。ほとんどが、山がちで、水がない・・・つまり、水田もなく、焼畑で陸稲を作っている。そんななかで、ここは珍しいわけで、だから、昔から人びとが住み着き、文化が根付いてきた村なのでしょう)